新地球日本史(直近版)1(2004/12/14)13(月)は休刊日【新地球日本史】(136) 明治中期から第二次大戦まで 中国戦線におけるコミンテルンの戦略(1) レーニンの「アジア迂回」政策 一九一九年にコミンテルンを大急ぎで創設したとき、レーニンはヨーロッパの資本主義諸国のプロレタリア革命が間近に迫っていると信じていた。それによって革命ロシアも孤立から救われるのである。「世界革命近し」の情勢判断は妄想に近い思いこみだったが、それは共産主義者が活動のエネルギーを引き出す源泉でもあった。しかし、事態の経過はレーニンの思いどおりにはならなかった。コミンテルンの必死の働きかけにもかかわらず、革命はどこでも成功しなかった。 一九二〇年七月、コミンテルン第二回大会が開かれた。この大会を準備するに当たってレーニンは考えた。ヨーロッパのプロレタリアートが資本主義を直接倒すのが難しいことはすでに明らかだった。だが、視野を地球規模にひろげてみよう。そこには、「資本主義の最後の最高の段階」である(とレーニンが勝手に定義した)「帝国主義」によって抑圧されている民族がいるではないか。 そこで、マルクスが文明発生後のあらゆる社会の構成メンバーを支配階級と被支配階級とに二分したように、世界中の諸民族を抑圧民族と被抑圧民族に分けてみるとどうなるか。 (所詮脳内単純二分法w) 抑圧民族のカテゴリーに入る人口は、アメリカ人一億人、日本人とイギリス人各五千万人など、合計二億五千万人である。それに対し、帝国主義の植民地・半植民地の境遇にある被抑圧民族は、計算すると十七億五千万人となる。地球総人口の七十%が被抑圧民族なのだ。 ■□■ こうした基本的思想に立って、レーニンはコミンテルン第二回大会で「民族・植民地問題に関するテーゼ」を報告した。そして、これら被抑圧民族の国々のブルジョア民主主義革命を共産主義者が積極的に支持し援助するという方針を打ち出した。それは、帝国主義に打撃を与え、本国の資本主義を弱めてプロレタリア革命が成功する条件をつくるためである。一種の迂回(うかい)作戦といえる。 なお、テーゼの草案で「ブルジョア民主主義運動」と呼んでいたものを、レーニンは「民族解放運動」と言い直すことにした。このほうが宣伝効果もある。 (テーマの完全すり替え) こうした次第で、二十世紀の民族解放運動とは、共産主義者によって創案・発見されたものなのである。 十九世紀のマルクスは人間解放を実現する手段としてプロレタリアート(無産階級)を発見したが、二十世紀のレーニンは世界革命の手段として民族を発見したのである。 ■□■ 他方、レーニンはヨーロッパのブルジョアジーには、一時休戦のポーズをとることにした。それには、ロシアの国内事情もあった。戦時共産主義体制のもとで国民は疲弊し、ロシアは経済的な破局、社会の崩壊の危機にあった。 (そのために敢えて国土も割譲した。すぐ戻ってくると思ってた? そうかなぁw) 皮肉なことに、ロシアの共産主義の危機を救うために、資本主義の要素を復活させ、ヨーロッパの資本を導入して生き残りをはかる必要があった。この政策は新経済政策(ネップ)とよばれ、一九二一年に発動された。 (トウ小平はその真似だよ。請負生産 「ヨーロッパでは守り、アジアでは前進」するというレーニンのこの戦略を「アジア迂回」政策という。日系米人の批評家カール・カワカミは、この政策の始まりを次のように書いた。 「最初レーニンはインドに手を伸ばす意図をもって、アフガニスタンに注目した。アフガニスタンとの国境沿いにラジオ放送局が設置された。共産主義宣伝の伝道者たちが、チンギス・ハーンやチムールがかつて通った古の道(カイバル峠w)を歩いて回った。共産主義宣伝のパンフレットや映画フィルムを積み込んだ飛行機が峠を飛びかった。モスクワの東洋共産主義者学校で学んだヒンズー系やアフガン系の学生たちがこの新しい領域に投入された」(『シナ大陸の真相』)。 しかし、この方面での「アジア迂回」政策は失敗だった。イギリスのインド支配はあまりにも強固だったので、コミンテルンも歯がたたなかったのだ。 次に着目したのは中国だった。軍閥や匪賊に略奪され、飢えた、反抗的な民衆をかかえる、無秩序で混沌とした地球上のこの地域こそ、共産主義の格好の工作拠点であった。そして、その作戦は見事に成功したのである。 (拓殖大学教授 藤岡信勝) (2004/12/15) 【新地球日本史】(137) 明治中期から第二次大戦まで 中国戦線におけるコミンテルンの戦略(2) 「マーリン方式」による国共合作 コミンテルンは一九二〇年四月、ヴォイチンスキーを上海に派遣し、中国共産党の組織化に着手した。彼はまず、北京で李大【金リ】、上海で陳独秀と協議した。 ところが、ヴォイチンスキーは九月には中国国民党の首領・孫文とも上海で面会している。なぜか。それを理解するには、中国革命についてのレーニンの戦略を知る必要がある。 中国のような半植民地におけるレーニンの革命戦略は、次のようなものであった。まず、その地域の民族解放運動とそれを中心的に担うブルジョア政党を共産主義者が援助し、独立を達成する。しかし、独立を達成したとたんにブルジョア政党はお役ご免となり、共産党が権力を奪取して直ちにプロレタリア革命をなしとげる。これが、レーニンがロシア革命をもとに考えた二段階革命論の筋書きであった。 そこで、コミンテルンは、その道具としての共産党を組織する一方、民族解放運動の看板となるブルジョアジーの政治勢力を見つけ出す必要があった。国民党はその有力候補だった。国民党は共産党に徹底的に利用されたあげく弊履(へいり)のように捨てられる運命にあった。そして、歴史はまさにそのように進行した。 ■□■ 一九二一年七月、上海のフランス租界で中国共産党の創立大会が開かれた。出席者は十三人で、大会にはコミンテルン代表としてオランダ人の共産主義者マーリンが出席した。大会ではコミンテルンに毎月、活動を報告する義務が定められた。こうしてコミンテルンの「嫡出子」として中国共産党は発足したが、当時の党員はわずか五十八人にすぎなかった。 同年十二月、マーリンは、北伐の準備のため桂林に滞在していた孫文に二度にわたって面会した。その席でマーリンは、(1)国民党を再編して労働者や農民を受け入れる(2)軍官学校を創設して国民軍の基礎をつくる(3)中国国民党と中国共産党の合作をはかる、という三つの提案を行った。 国民党と共産党が連携する国共合作には二つの方式が考えられた。一つは、相互に独自の組織としての独立性を保った上で、対等な協力関係を結ぶものである。もう一つは、個々の共産党員が個人として国民党に加入する形式である。 後者の形式を考え出したのは、マーリンだった。「マーリン方式」の狙いは、「宿主」としての国民党に共産党が「寄生」してその勢力をのばすことだった。 (戦後日本での「総連・民潭・層化」みたいだねw) マーリンは、インドネシアでイスラム系の団体にもぐり込み、それを利用して共産党の組織をつくりあげた経験をもっていた。レーニンもマーリンの能力と実績を高く評価していた。 一年あまりの交渉の末、ついにマーリンは孫文に「マーリン方式」による合作を承認させた。李大【金リ】、陳独秀らの共産党幹部が早速国民党に加入した。こうして、コミンテルンはやっと中国でレーニンの戦略を実行する手がかりを得た。 一九二三年一月、国民党は宣言を発して、党の改組を発表した。これによって国民党はレーニンのボルシェヴィキをモデルとし、民主集中制を組織原則とする政党に再編された。その後、すべての共産党員が国民党に入党した。 ■□■ 一九二四年一月、中国国民党第一次全国代表大会が開催された。これ以後三年半にわたった国民党と共産党の提携を「第一次国共合作」という。この年、黄埔軍官学校が開設され、校長に蒋介石が任命された。 一九二五年までに中国で活動したコミンテルンの顧問の数は、約一万人にも及ぶといわれる(マクダーマット他『コミンテルン史』)。どれくらいの資金が中国に投入されたか、そのデータはない。しかし、顧問の数の規模から見て、湯水のような金が注がれたことは想像に難くない。 コミンテルンは英語風に読めば「コミンターン」と発音される。他方、国民党を中国語の発音で読めば「クオミンタン」である。カール・カワカミは次のように書いている。 「二つの名称の発音の類似性は偶然ではない。何故ならば国民党が一九二三年に再編されたとき、コミンテルンのいわば私生児のような存在だったからである」(『シナ大陸の真相』)。 (拓殖大学教授 藤岡信勝) (2004/12/17) 【新地球日本史】(139) 明治中期から第二次大戦まで 中国戦線におけるコミンテルンの戦略(4) 世界史を変えた西安事件と周恩来 コミンテルンは一九三五年七月から八月にかけて、モスクワで第七回大会を開催した。七年ぶりの大会だった。この間、極東では日本が後ろ盾となった満州国が誕生し、ドイツではヒトラーが政権を掌握した。 ソ連は東西から挟撃される脅威を感じるようになった。 この大会で、コミンテルンは画期的な方針転換を行った。ファシズムの脅威に直面して、これに反対するあらゆる勢力を糾合した人民戦線(統一戦線)の構築を提起したのである。 帝国主義の手先とされてきた社会民主主義政党も手を組むべき味方になった。 この方針はソ連の生き残りを図りつつ各国の革命運動の再構築をめざすものであった。 コミンテルンの大会期間中の八月一日、中国共産党は「抗日救国のために全同胞に告げる書」(八・一宣言)を発表し、抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた。この宣言はモスクワ在住の中国共産党代表の手になるもので、長征途上の毛沢東らは知らなかった。 ◆◇◆ 新方針の戦術転換にそって活発に活動を始めたのは周恩来だった。一九三六年四月、周恩来は延安で張学良と極秘に会談した。張学良は一九二八年に日本軍に謀殺された満州の軍閥・張作霖の長男で、蒋介石に私淑していた。張学良は蒋介石から共産党討伐軍の副司令に任命され、東北軍を率いて西安に拠点を構えていた。しかし、共産党とは戦いたくないというのが張学良の本心だった。 共産党は民心をつかむ技術に長(た)けていた。(洗脳w) 「わが家は東北、松花江のほとり」という句で始まる東北軍の望郷の歌を戦場に流し、帰心を煽(あお)った。また、東北軍の精鋭師団が共産党軍に包囲され、三千七百人余りが共産側の捕虜になるという出来事があった。共産党はこれらの捕虜に、国共内戦を停止し一致して日本と戦うべきことを説いた上で、旅費を渡して送り返した。軍内部には厭戦(えんせん)気分が一気に高まり、張学良を突き上げた。 張学良は数度にわたって蒋介石に、「攘外安内」(先に日本と戦い、のちに国内を平定する)を進言した。しかし、蒋介石は「安内攘外」(まず国内の共産党を破ってから日本を破る)を方針として耳を貸さなかった。 あと数カ月で共産党を壊滅させることができると蒋介石は豪語していた。 (中共は風前の灯状態だったこと) 1936(昭和11)年12月4日、蒋介石は張学良の対共産党攻撃を督戦するために西安に乗り込んできた。 12月12日の早朝、張学良の軍隊が蒋介石の宿舎を襲い、山の中腹まで逃れていた蒋介石を逮捕した。 (その結果。1年後に首都南京が占領されたわけだ。入城式が1937(昭和12)年12月13日) 衝撃的なニュースが世界を駆けめぐった。毛沢東は長年の恨みを晴らすべく蒋介石の死刑を求めた。 しかし、スターリンはコミンテルンを通じて蒋介石を絶対に殺すなと指示し、毛沢東に対しては「もし、蒋介石を釈放しなければコミンテルンを除名する」と恫喝(どうかつ)した。 毛沢東は地団駄(じだんだ)を踏んで悔しがった。 共産党を代表して蒋介石と面会することになったのは周恩来だった。党の命運は彼の双肩にかかった。 12月24日(聖誕祭イブw)の夜、会談に臨んだ周恩来は、「蒋先生、十年ぶりにお会いします」と語りかけた。蒋介石はしばし物思いにふけった。両者は黄埔軍官学校で校長と部下の関係にあったことを周恩来は想起させたのである。第一次国共合作の遺産を最大限に利用したともいえる。蒋介石はついに、「内戦停止・一致抗日」を承認した。「第二次国共合作」への第一歩だった。 ◆◇◆ 西安事件は二十世紀の世界史の巨大な転換点だった。西安は中国共産党復活の場だったが、国民党にとっては墓場となった。 瀕死(ひんし)の共産党を救いその後の勝利をもたらしたのは、地主に三角帽子をかぶせて引き回す農民の「闘争」(のちの文化大革命で再現された)を称賛した毛沢東ではなく、自慢のひげをそり落として蒋介石との会談を成功させた周恩来だった。 蒋介石に「攘外安内」を説いた張学良はのちに「私が間違っていたかもしれません。しかし、あの時は、そう信じていたのです」と、外国人記者に語った。文化大革命も過去のものとなった一九九〇年のことだった(NHK取材班『張学良の昭和史最後の証言』)。 (拓殖大学教授 藤岡信勝) (2004/12/18) 【新地球日本史】(140) 明治中期から第二次大戦まで 中国戦線におけるコミンテルンの戦略(5) 日中戦争の謀略に乗せられた日本 西安事件からわずか半年後に、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍の衝突事件が起こった。 一九三七年七月七日夜、演習中の日本軍に向けて、何者かが発砲したのだ。翌日も銃撃がやまなかったので、日本軍は近くに駐屯している国民党軍の仕業と見て応戦した。 中国共産党は早くも七月八日、延安から全国へ次の電報を打った。 「七月七日夜十時、日本は盧溝橋において中国の駐屯軍馮治安部隊に対し攻撃を開始し、馮部隊に長辛店への撤退を要求した。(中略)われわれは、宋哲元将軍がただちに二九軍全軍を動員して前線に赴き応戦することを要求する。われわれは、南京中央政府がただちに二九軍に適切な援助を与えるとともに、ただちに全国民衆の愛国運動を開放し民衆の抗戦士気を発揚させるよう、また、ただちに全国の陸海空軍を動員して抗戦の準備を[要求する。](中略)国共両党は親密に合作し、日本侵略者の新たな攻撃に抵抗し、日本侵略者を中国から追い出そう!」(日本国際問題研究所『中国共産党資料集・第八巻』) 日本軍が応戦したのは翌日の朝なのに、夜十時と特定されていること、しかも日中両軍の司令部すら事態の真相をつかんでいない時点で早手回しにこうした電報を打ったことは、最初の一発から共産党のシナリオができていたことを推測させるに十分な証拠である。 事件そのものはささいな摩擦にすぎず、直ちに停戦協定が結ばれ、局地解決がはかられた。ところが、コミンテルンは、次のような秘密指令を発していた。 ◆◇◆ 「(1)あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突に導かねばならない(2)右目的の貫徹のため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい(テロの奨め)(3)下層民衆階級に工作し、彼らに行動を起させ、国民政府として戦争開始のやむなきにたち至らしめねばならない(煽動に奨め)(4)党は対日ボイコットを全支那に拡大し、日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威嚇せよ(5)党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕(りょうが)する党勢に達しなければならない」 この資料は一九三九年十月に興亜院政務部が発行した『コミンテルン並に蘇聯邦の対支政策に関する基本資料』という文献に収録されているものである。 日本の歴史家は戦時中の政府機関が発行したこの資料について、出所が記載されていないとして資料価値を否定する。だが、私は鈴木正男氏の次の見解に賛成する。 「この資料は出所は記してないのは当然である。陸軍の特務機関が中共にもぐり込んで入手したものか、或はドイツ特務機関が入手、日独防共協定(後に軍事同盟)により日本に知らされたものか、そのいずれかである」(『支那事変は日本の侵略戦争ではない』) その後の事態は、まさにこのコミンテルンの指令文書の通り絵に描いたように進行した。 中国戦線におけるコミンテルンの戦略は明白である。日本を挑発して何としてでも泥沼の長期戦争に引きずり込み、日本と国民党を徹底的に戦わせることである。そこから得られる利益は三重である。 (1)日本をソ連への攻撃からそらせることができ (2)日本との戦争に勝っても負けても国民党は弱体化して中国に共産党政権を樹立することが確実になり (3)あわよくば日本の敗戦によって日本をも共産化することができる。 ◆◇◆ 一方でスターリンは、一九三七年十二月、駐ソ中国大使に「蒋介石委員長に伝えてほしい」として、次のように述べた。 「戦争を続けるにあたって、人民の反政府行為をなくそうとするには、委員長は少なくとも四百五十万人を銃殺しなければならない。そうしなければこの抗戦を勝利に結びつけることはできないと思う」(サンケイ新聞社『蒋介石秘録12・日中全面戦争』) さらにコミンテルンは、ゾルゲや尾崎秀実らのスパイを通じて、近衛文麿など日本の政権の中枢にさえ工作を行った。 日本が無益で自殺的な戦争を継続したのは、政権内部にも言論界にもコミンテルンの手が伸びていたからである。 (拓殖大学教授 藤岡信勝) (2004/12/20) 【新地球日本史】(141) 明治中期から第二次大戦まで 対談 三浦朱門/西尾幹二(1) 日本の独立を守った高い国民意識 -日本の歴史を地球規模で見直す「新・地球日本史」の連載が、折り返し点を過ぎました。そこで、前半を通読した感想を、責任編集者でもある評論家、西尾幹二さんと執筆メンバーの作家、三浦朱門さんに話し合っていただきます。 西尾幹二 この連載は普通の歴史書ではなく、単一テーマを歴史の中から恣意(しい)的に拾い出したような展開になりました。それはある意味で最初からの計画で、私は編集を依頼されたとき、書いていただきたい人のほうが先にあって、テーマが後からついてきた。そのために歴史叙述としては不完全ですが、非常に面白い文章が並んだと思っています。 三浦朱門 ある一点に立ち、その時代に立ち返って周りを見回すことができるという面白い試みになったと思います。いわゆる通史だと、一つの歴史観で整理されてしまうんですけれど、この連載はさまざまな立場の人、さまざまな分野の専門家がそれぞれの視点で書いている。そのために首尾一貫していないところがあるけれども、むしろそこに新しい問題提起があるんじゃないでしょうか。 西尾 連載は明治憲法、教育勅語から始まって、まず明治の国民国家の立ち上がりが描かれます。 三浦 いま西尾さん、「国民国家」とおっしゃいましたけれど、これはとても大きなことです。いまから百五十年ほど前に、われわれの先祖が必死になって日本が植民地にならないように頑張って独立を保った。そのときは孤立無援で誰も手を貸してくれなかった。それが明治四十年になってみると、日本は独立国として押しも押されもせぬ存在になっていたんです。 一九六〇年代は“アフリカの時代”といわれ、たくさんの独立国ができました。それから四十年間、旧宗主国をはじめ国連、さらにアメリカや日本などがさまざまな形で援助してきたけれど、国らしい国がどれだけできているでしょうか。 第二次大戦後に独立した多くの国は、部族というか大家族というか、その集合体のようなもので、必ずしも国民意識はできていない。それが、あの時代に日本がそういうものをもっていたことはすばらしいと思うんですね。 西尾 鳥海靖さんが『西洋人の見た文明開化の日本』で、日本の政治的統合の背後にあった日本人の民度の高さを書いています。その中で英国人の女性旅行家、イザベラ・バードの東北旅行記を紹介していますが、そこはこんなところがあったのか、というほど貧しくて、大人でも男はふんどし一丁、女も上半身をあらわにしていた。「しかし」と彼女はこんなふうに書いているというんです。 《貧しくても決してお金を盗んだり…過当な料金を要求することはなかった。人力車夫や馬子も物静かで親切で礼儀正しく落とした革帯一つ拾うのに、一里の道を引き返してくれた。それでも決してチップは受け取らないのである》 三浦 ベルトを拾うために一里戻ってきて、しかも特別なチップを要求しないんですね。 西尾 要求しないどころか、あげても受け取らない。これは自画自賛する必要はないけれど、当時のアジアの他の国とはまるで違うところでした。 (2004/12/21) 【新地球日本史】(142)明治中期から第二次大戦まで 対談 三浦朱門/西尾幹二(2) 明治の日本人が残した独自ソフト 三浦朱門 イザベラ・バードの話と対照的なんですが、彼女が日本を旅したちょっと後、明治二十一年に柴五郎という後に陸軍大将になる人が北京からソウルまで旅行をしています。 彼は諜報(ちょうほう)関係の将校だと思うんですが、朝鮮に入ると、貨幣が日本でいう一文銭しかない。だから両替すると、硬貨で馬の背中いっぱいになってしまう。 もしいま日本で百円硬貨しかなかったら、旅行もなにもできないですね。ところが、日本では徳川時代にすでに弥次喜多道中が可能だった。田辺聖子さんが書いていますが、北九州の遠賀川河口にある豊かな商人のおかみさん二人が番頭を連れてお伊勢参りをして、ついでに善光寺さんに行ってという記録が残っています。 日本ではこの当時すでに国民国家をつくるための前提となる経済とか交通、治安のシステムができあがっていたんですね。 西尾幹二 ほんとうにそう思いますね。連載では、西洋人から「西洋の文化をそのままうのみにするのではなく、自分の国の歴史や伝統を大事にしなければだめだ」と強くいわれると、それをたちどころに理解して、浅薄な欧化主義を非常に早い時期に清算していく過程を、八木秀次さんが『明治憲法とグリム童話』で書いています。 伊藤博文がシュタインというオーストリアの学者に学んだことは、まず何よりも自国の伝統的な習慣や法意識をしっかりと考えなければ憲法なんかつくれない、ということです。 そこでグリムが出てくる。グリムの兄は法律学者でたくさんの民間伝承を集めた。弟の協力で後で童話になりますが、これは童話を集めるのが目的ではなく、ゲルマンの法意識を形成する古伝説を再発掘しようということから始まったというんですね。 ◆◇◆ 三浦 グリム兄弟は言語学者でもありました。 西尾 そうした土台の上に井上毅が『古事記』から「シラス」という統治概念を得ます。 西洋や中国の占領するとか領民を獲得するという概念とはまったく違う日本独自の統治のあり方で、明治憲法はそこに立脚点を置くんですね。 続いて加地伸行さんが『「教育勅語」は曲解されている』で、やはり西洋から入ってきた個人道徳意識や国民国家意識というものを伝統文化で補完したということを語っています。 同様に田中英道さんは『フェノロサと岡倉天心』で、フェノロサが「気格」とか「妙想」という面白い言葉を使って日本の文化のほうが西洋の「写実」より高いといったことを紹介しています。 このお三方の話は私には共通点があるように思いました。 ◆◇◆ 三浦 日本が完全に西洋のものを受け入れてしまえば、日本は西洋の一部になってしまう。日本はむしろ、自分の独自のものを残すために西洋を入れようとしたんですね。それは実は千年以上も前に手本があるんです。最近、現在の法隆寺が再建されたものであったことが立証されたと報じられましたが、法隆寺はそのころの日本人にしてみれば、中国のというか、中国・朝鮮経由のインドの宗教を具現化した外国的な文明のつもりでつくったんですね。結果的にはそうでもないんですけれど。 しかし、その焼失とほとんど同じ時期に、天武天皇が大津を攻めるときに伊勢神宮を遙拝したらうまくいったということもあって、伊勢神宮を立派なものにするんです。 私ども夫婦はキリスト教徒ですが、伊勢神宮が好きなんです。あそこにあるのは、古代建築の設計による新しい社殿だけ。あとあるのは清らかな川やそびえ立つ杉の木立。また千年前のソフトがそのまま生きている塩の作り方とかですね。世界遺産は古くから残っているモノでないとだめなんていっていますが、伊勢神宮に残っているのは、モノでも自然でもなくソフトなんですね。 西尾 そうですよ。ハードじゃない。ソフトだということが西洋人には分からないんですね。 三浦 ですから、明治でも日本人が残したのはソフトだったと思うんです。日本的なものでも、幕藩体制のように行き詰まったソフトは捨ててしまう。そしてはるかに便利な欧米のものを入れるんだけれど、本当に日本的なるものというのは守り伝えたんですね。 (2004/12/22) 【新地球日本史】(143)明治中期から第二次大戦まで 対談 三浦朱門/西尾幹二(3) 明治天皇の君主の愁いと哀しみ 西尾幹二 明治はハードではなくソフトを残したというお話ですが、この連載の前半のテーマを極めて象徴的に集約したのが、三浦先生の『明治大帝の世界史的位置』という文章だと思います。 私が面白いと思ったのは「もし明治天皇が暗愚な君主だったら」という問いかけです。 先生は、維新前後の混乱期に明治天皇が右往左往されたら、結果的には明治の日本の歴史は随分とちがったものになっていただろうといって、こう書かれています。 《(日本は)今風に言うならアイデンティティーを確立せねばならない。しかもそのアイデンティティーを喪失せずに、革新を行わねばならなかった。この視点からも、皇室、天皇の存在は貴重であった。皇室が無力でありながら、日本そのものであること、そこがあらゆる議論の対立の消滅点でもあった》 これは非常に大切なご指摘です。僕が印象深かったもう一つは、「五箇条のご誓文」についてです。 これは本来(西洋の歴史に習うなら)だったら諸大名と盟約する形で行うわけですけれども、それをやらないで天地神明に誓われた。 先生は「結果的にはこれがよかった。神に誓うということは大名、公卿を含めた、全国民に誓うのとおなじことになるからである」と指摘されました。 三浦朱門 それに明治天皇の御製(お歌)ですね。これはそのころの国民を命令ではなく、教え諭すところがあったと思うんですね。 子等はみな軍(いくさ)のにはにいではてて 翁やひとり山田もるらむ ほんとうに君主の愁いですね。「君死にたまふことなかれ」なんて浅はかなところがない。生きて帰ってこいなんてことはいっていないんです。 戦死するかもしれない。ご自分の名のもとに多くの兵士が死んでいる。その哀(かな)しみがあるんですね。そういうところは、明治の日本人は好きだったんじゃないですか。 西尾 それは昭和天皇にもありましたね。先生は明治天皇を古代ローマのパンテオンにたとえられました。パンテオンというのは、東京ドームみたいなものを想像されればいいのですが、その上の中央部分に穴が開いている。これについてはこう書かれています。 《この中央に何もない部分、ゼロの空間がある。…ここから国家という構造物の中に、外界から光が降り注ぐ。雨や雪が入ることもある。しかしこの無の空間を一つの規準として、我れ我れは国内の空間と虚空という世界の差と、それに対処する方法を見いだすことができる。明治天皇はこの無の空間を創設されたのである》 もう少し説明していただけますか。 三浦 これね、ぎっちり完全に積み上げると息がつまる。独裁国家になっちゃうんですね。ドームの周り部分は力学的には完全でなくてはいけません。でないと壊れてしまう。真中の空間も力学的には重要な部分なんだけれど、実際はないようなものなんですね。私、象徴天皇制を形で示すとああなるのかなという気がするんですけれどね。 西尾 とにかく常に無の存在で。それは昭和天皇にも通ずるものだと思いますが、昭和天皇については、所功さんが『昭和天皇の近代的帝王学』で、乃木希典学習院長はじめ、当時のえりすぐりの先生方から、極めて近代的・合理的な教えを受けられたことを詳述しています。 三浦 私は所さんのお考えに賛成です。ただ一言付け加えさせていただくと、昭和天皇は明治憲法下で育たれて天皇になり、戦後、象徴天皇になられた。基本的にこれはそんなに違った存在ではありません。ですから、昭和天皇は明治憲法といまの日本国憲法とは連続したものだということを具体的に示された存在だという気がします。 もし敗戦後に昭和天皇が退位されていたら、あそこで明治憲法と日本国憲法の間に断絶が起こったかもしれませんね。そうならなかったのはやはり天皇という存在が、存在感があってしかも無だからこそできたことじゃないかな。 西尾 歴史の連続性が守られたんですね。 (2004/12/22) 【新地球日本史】(144)明治中期から第二次大戦まで 対談 三浦朱門/西尾幹二(4) 断絶のある欧州史と継続の日本史 西尾幹二 天皇に関連していうと、萩野貞樹さんが『歴史破壊者の走り-津田左右吉』で神話問題を論じています。その第五回の「神話の日本的錯覚はなぜ起こった」が非常に印象的でした。王権が神話と結びつくのは世界中どこでもそうなんですが、萩野さんは、たとえばギリシャ神話のアテーナーが歴史上の人物であるかどうかなんて問題にもならないのに、日本のアマテラスをはじめとする神々になぜ神話か歴史かという問題が起こったかについて、こう書いています。 ■□■ 《(世界の多くの国は)まずはすべてが神の子孫を奉戴する神国から成っていた。ところがことごとく滅びた。高文明圏で残っているのは日本だけと言ってよい。これが人々の、日本神話を見る目を狂わせた。…津田をはじめ日本の学者すべてを襲った大錯覚は、現実に政治的な機能もはたしている皇室が、あろうことか神話の神の裔(すえ)におわすことに周章狼狽(ろうばい)した結果にほかならない》 三浦朱門 そこはちょっと異論があります。中国人は黄帝の子孫であるといいます。シンガポールで最もよく売れる本の一つは、あなたの祖先は誰か、ということを書いたものです。 朝鮮半島でも祖先をたどると神さまと熊のところへ行き着く。 (神様が大蒜喰って精進wした熊女やっちゃったw) アジア人はすべて神の子孫なんですね。われわれも先祖は神なんです。だから、アメリカ人が日本に来たときに間違ったことの一つは、神の子孫は天皇家だけだと思ったことです。ヨーロッパの歴史には断絶があるけれど、彼らだってゲルマンはゲルマンの神、ケルトはケルトの神から来ているんです。 西尾 ヨーロッパの王権はことごとく近代の王権で、十三、四世紀以降の戦争の勝利者ですからね。 三浦 しかもキリスト教を採用したために、みんなアダムとイブの子孫になった。 ■□■ 西尾 朝鮮も中国も他のアジアの諸国も、ほとんど王権を失っている。ヨーロッパはことごとく近代の王権ですから、神話と歴史の違いはすべて説明できる。ところが、日本の王権、天皇家だけは説明できなくて困ったということがあった。それが津田左右吉のような人を生んだ原因だと萩野さんは言います。 さて、連載後半のテーマは日本の安全保障、中国大陸に対する問題、そしてアメリカの西へ西へと広がっていくエネルギーへの日本の対応に移り、多くの方の非常に優れた認識が展開されました。まず入江隆則さんが『日清日露の戦後に日本が直面したもの』で、それぞれの戦後の日本国民の反応の大きな違い、そして、二つの戦争を通して日本国民と周辺国民との間に意識の違いが生じていくことを指摘されています。後者について入江さんは「日本人だけが血を流したという事実」を原因にあげ、「日本人の周辺諸国への軽蔑はこのとき必然的に芽生えざるを得なかった」と分析しています。 (2004/12/24) 【新地球日本史】(145)明治中期から第二次大戦まで 対談 三浦朱門/西尾幹二(5) 西洋の価値観支配した米の戦争観 西尾幹二 次に大澤正道さんの『米国に始まる戦争観の変質』ですが、これは大変驚くべき内容で、この連載の白眉(はくび)をなす論考だと思います。 概略を言いますと、昔戦争は騎士道のもとで行われたりして“戦争の遊戯化”という傾向があった。それがフランス革命による徴兵制で兵士を安く集められるようになって、血で血を洗う露骨化が始まった。それがアメリカの戦争観の世界史への導入によって拡大固定化したと言います。 その最初の表れが南北戦争ですね。南軍のリー将軍は戦争の途中で「名誉ある平和」のチャンスをつかもうとしていたに違いない。 しかし、リンカーンは南軍の壊滅を命令します。そして南部連合国の大統領を戦争犯罪人として投獄して、足枷(かせ)まではめる。つまり恥辱、屈辱を与えた。こういうことは近代の戦争の歴史で初めてのことです。 三浦朱門 イラクのフセイン大統領を捕まえたときとよく似ていますね。 西尾 南北戦争から第一次、第二次両大戦、そしてイラクまで一直線です。大澤さんが言っていますが、戦争指導者を裁判にかけるとなると抵抗が激化して結局戦争は長引く。戦争責任者を処刑すればいつまでも問題は尾を引きます。 三浦 アメリカの西へ進む傾向ですが、ニューヨークにセオドア・ルーズベルトがつくった博物館があります。入り口の壁画には桜が咲いていて、鉄砲を担いで歩く日本の軍隊の絵があって、何となく親日的な感じがあるんですが、中に入ると、これがアメリカの西部発展史なんです。最後は太平洋。波荒き太平洋は暗い。そのかなたにあるのがアジアですね。ルーズベルトの視野の中にははるか太平洋を越えて見る西があったと思いますよ。 アメリカは対スペイン戦争のあとフィリピンに上陸する。そしてグアム、ハワイを獲る。そこでもう太平洋を壟断(ろうだん)する力をつくってしまった。 だから横腹から脅威を与えるかもしれないロシアは邪魔で、日本に対して好意的だった。ところが、日露戦争で日本の艦隊が丸ごと残ってしまった。この時から日本にはいい顔ができなくなったんですね。その意味で第二次大戦は戦わざるを得なかったんじゃないかと思いますね。 西尾 大澤さんの論文で私が大変面白いと思ったのは、第一次大戦後、西洋文明の没落ということについて西洋人は厳しい自己批判をしましたが、より大きな戦禍をもたらした第二次大戦後に、文明の破壊に対して反省し自己批判する言葉がなかったという指摘です。 自分が正義で他は全部裁きの対象という、私の言葉でいえば「人類の法廷」、南北戦争以来のそういう思想が西洋の価値観を強く支配するようになったんですね。 三浦 アメリカ的価値観が広がっていったという感じがします。ヨーロッパがそういう価値観を受け入れざるを得なかったのは、イギリスもフランスも勝ったほうに属したわけですが、勝ったことによるメリットが何もなかったからなんですね。植民地を失っただけで。オランダもそうです。 これを裏返してみると、日本は第二次大戦で負けたことで受けた損害は非常に大きなものがあるけれどメリットもあった。一つは植民地を失ったこと。日本があのまま植民地を持ち続けたら、そこに何十万という軍隊を張り付けてもどうにもならないですよ。 西尾 その後全部アメリカが背負ったんです。 三浦 それがアメリカの宿命。もう一つは第二次大戦によって日本人というか黄色人種と白人には差がないということをやっと認めたことです。 私はいまでも覚えていますが、第二次大戦で「零戦」が活躍しますね。ところが当時、欧米の新聞は「日本がこんないい飛行機をつくれるはずがない。ドイツあたりから輸入したんだろう」とか「パイロットはドイツ人だった」なんて書いていた。 いまでも感覚的な差別感はあるけれど、真面目に考える人は日本人だって中国人、朝鮮人だってわれわれと比べてとくに劣っていることはないとみんな思うようになった。 この二つは敗戦にもかかわらず日本を変えていった大きなメリットだったと思います。 (2004/12/25) 【新地球日本史】(146)明治中期から第二次大戦まで 対談 三浦朱門/西尾幹二(6) 共産主義信奉した知識人の危うさ 西尾幹二 最後に中西輝政さんの『大正外交の萎縮と迷走』と藤岡信勝さんの『日本に共産主義はどう忍びこんだか』の二編ですが、双方に共通するのは日本の知識人の危うさという問題です。 中西さんは昭和の混迷は大正の迷走にあったと、大正時代に始まる幣原喜重郎の外交政策を厳しく批判します。 そして幣原が “知らぬが仏”で二重にだまされていたという構図を明かします。 三浦朱門 これは面白かったですね。 西尾 日本の支援で満州を支配していた張作霖が呉佩孚(ご・はいふ)に押されて危うくなる。 日本国内に張支援の軍事介入を求める声が高まりますが、平和主義者の幣原は不介入を通します。 ほどなく呉の配下の馮玉祥(ふう・ぎょくしょう)が反旗を翻したため日本は介入の必要がなくなった。そこで幣原は男をあげるわけですが、実は馮の反乱は日本軍部の謀略工作によって実現したもので、陸軍大臣・宇垣一成は幣原らを「目出度(めでたい)連中」と日記に書いているというんです。ところが、これにはさらにオチがあって、中西さんはこう書いています。 ◆◇◆ 《近年公開されたイギリス情報部の秘密文書によれば、馮の背後にはソ連=コミンテルンがおり、馮はモスクワからの指令で動いていたことをイギリス情報部はコミンテルンの通信傍受によって逐一つかんでいた。要するにイギリスやソ連が見ている前で、日本の陸軍は日本の金と力を注ぎ込んで「反日勢力」を支援していたのである》 中西さんが研究している国際情報学の分野では、最近次々と秘密文書が公開されています。コミンテルンの「ジノヴィエフ書簡」やアメリカがソ連の暗号通信を解読した「ヴェノナ文書」などです。 三浦 それによって“幻”といわれたマッカーシー旋風はおおむね正しかったことも分かった。 (資料的には岩波文庫しかないからなぁ。あそこじゃ単なる気違い扱いでしょw) ◆◇◆ 西尾 一方、藤岡さんはやはりコミンテルン文書によって、日本共産党の結成の過程を解明しています。それによると、初期の共産党は「君主制の廃止」を掲げるのを恐れて、その言葉は当時の文書のどこにもないといいます。それは日本の皇室を否定する運動が国民から孤立したからですが、では日本に忍びこんだ共産主義は成功しなかったかというとそうではない。藤岡さんの記述を読んでみます。 《日本についてもコミンテルンは弱体な共産党だけを対象に指令を発し、依拠したわけではない。その工作は直接、日本国家の中枢部に及んでいた。…全体の構図を今振り返ってみれば、組織としての共産党は、むしろ日本国家への工作をカムフラージュする陽動作戦であったといえなくもない》 三浦 つまり戦前、政治組織としての共産党は完全に無力だったけれど、イデオロギーとしての共産主義は知識階級に広まっていった。私はそれに染まった知識階級がその後の日本や世界の動きを見て「こんなはずじゃなかった」という気持ちになったのは間違いないと思うんです。敗戦後、いよいよ日本に社会主義がくるという予想を多くの知識人が持っていた。ところが現実には全然そうならなかったんですね。そのことに対する失望や怨恨から彼らは「日本はなんでもかでも悪い。日本が悪かったからわれわれの思いどおりにならなかった」という論理に逃げ込んだんじゃないかという気がします。 西尾 それがどんなにわれわれを苦しめ、日本の子供たちをゆがめているか。 教科書問題から行き過ぎたジェンダーフリーまで、拉致問題から靖国問題まで。それは明治大正の知識人の問題に始まりますが、われわれの時代を考えるうえでも、終わったけれど終わっていない悩みとして、これをもっと究明しなければならないと思います。 ◇ 「新・地球日本史」は、来年一月三日から連載を再開します。また連載の前半二十編を収録した単行本『新・地球日本史1 明治中期から第二次大戦まで』が、来年二月下旬、扶桑社より刊行される予定です。 ジャンル別一覧
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